クラシック音楽の「才能」の活用について。

出場者の皆さまへ, 室内楽コンクールOSAKA事務局


音楽的な才能の片鱗を少し見せると、最初に食らいついてくるのは、実はポップスや歌謡曲です。

私は、全くピアノが上手ではないのに、ピアノを少し舞台で演奏すると、素晴らしいとか、演奏が生き生きしているとか、自分の専門のファゴットなどより、ピアノで表現してみたらという頓珍漢なことを言われたりしたことがあります。無知というよりかは、病的な耳の持ち主だと、心から軽蔑していましたが…、今は少しだけ反省しています。

クラシック音楽は、その点、才能を活用する反応が、本当に鈍いです。下手すると、才能を見出される前にシューマンのように死んでしまう。もう、絶望的に鈍いんです。ピアソラにしてもそうだけど、死後20年たってから今、クラシック音楽として認められるようになってきたと思うことがあります。


 一方、ポピュラー音楽界は、才能の片鱗がチラっとでもあれば、音大の1年生の時であっても、声がかかります。声がかからないまま卒業して、素直にクラシックの音楽界に進むというのは、よほど才能がないという証拠といってもいいのかも知れません。

 一方で、音楽大学での評価というと、実社会での評価と少し違うような気がします。私の場合、和声やソルフェージュのクラスは特に上級者のクラスではありませんでした。なんとなく課題はこなしているけど、大学で機能和声をしっかりと使いこなせるような指導を受けたという経験はありません。(お覚えていないだけでしょうか?)

でも、今プレイヤーとして、普通にトランスクライブは毎日こなしているし、一般的な楽譜を見てボイシングについて自分なりの解釈で理解を深めた演奏もできます。

 この技術は大学で学んだことではないし、演奏の現場で叩き込まれたことです。でも、大学で私より機能和声などの授業で優秀な成績者が同じような事ができるのかというと、恐らくできないのかもと思うことがあります。

 大学でソルフェージュや和声が満点取れて、楽理も完璧で、バロック時代から古典派、現代音楽まで完璧に演奏できるような生徒が他にもたくさんいたけど、その人たちは今、何しているのだろう?と考えます。

成績は間違いなく優秀だったし、たくさんの新人演奏会などにも出演していたけど、今ある仕事は、せいぜいオーケストラのエキストラと、そのほか吹奏楽などの指導が全てという人ばかり。首席で卒業した人でそのレベルで、それ以下の人の多くは、方向転換を余儀なくされた人となる。

 要は、音楽の才能があるということと、音楽家としての才能は別、ということです。つまり、音楽家として生きていくためには、音楽家としての才能を磨かなければなりません。これは、大学での成績とは少し違って、実際にお客さまに直接空気を振動させて伝えられる音楽が必要になってくるということだ。

 室内楽コンクールOSAKAは、全ての人にチャンスをという気持ちで立ち上げました。多くの人に、もっとお客さまに向けた生きた演奏をしてもらいたいし、しっかりと会場の空気を振動させてもらいたい。それも、最高の舞台であるシンフォニーホールで!

出場者のエントリーを心よりお待ちしております。

2022.09.22 室内楽コンクールOSAKA事務局

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